2012年 09月 05日
松花堂弁当を食して松花堂庭園を散策 |
松花堂弁当の記事を見直して、なんだか、ダラダラと長く、何が言いたいかもわからない(笑)そんな相変わらずスパゲッティな自分の頭の中を整理しながら、合間合間に、文章に手を入れたりしていました。ま、今も変わり映えしませんが、特に最初の頃の文章を読んだ方はご愁傷様でした。
ちなみに、松花堂弁当は、当時(昭和初期)の新聞記事になるほどの大きな茶事で初めて供されたようですけれど、これって、商売熱心な大阪の高級仕出し屋のおっちゃんが、数をこなすため略式配膳であることをあまり意識させず、しかも格好良く給仕できる、そんなことをねらって、もっともな由来を考えた、っていうような見方も出来るかもしれません。それが、とても格好良かったんで、後から流行ったのかもね。ま、これは吉兆の湯飲み(「雪富正月屋」と文字入れのある)の向こうに見えた景色。。。でも、そこまで主旨を修正すると全部打ち込み直さないとダメですけれど(笑)
ともかく、そんな風に過去記事を見直しながら、松花堂庭園の話しなども打ち込もうなどと考えておりました。でも、庭園訪問時の印象が、どうもスッキリしなくて、なんでだろうねぇ、という「なんで」の穴埋めに、よなよなネットサーフィン。ついつい遊んでしまいまた。1回のお出かけでこれだけ遊べると2度美味しいかも知れませんね。
と、相変わらず枕が長いのですけれど。。。。 松花堂美術館や吉兆の入っている新しい建物に連なる庭園南側のエントランスから入場料を払って入園すると、しばらくいろいろな種類の竹の植わった園路を歩きます。風景として眺めれば、それはそれで楽しめますが、今一つ違和感があります。「おぃおぃ植物園かいな」というところ。(この庭園のある八幡市はエジソンの竹で有名な街なんで気持は分かりますけどね。。)
暫く歩くと、近年復元した茶室が3棟、内2棟は最近このブログによく名前がのる中村昌生先生の手による復元です。席名は、園路の順に、梅隠、松隠、竹隠です(笑)ありゃ、松竹梅ですね。まるで鰻屋のお品書きのようです。それぞれ、古色というのでなく、あまり手を掛けられていない態の、少しくたびれた風情なのでした。八幡市の出資する財団法人の運営ですから、やはり厳しいのでしょうね。そういう風情に溢れていました。でも、後で触れますが、悪いことだけではないようです。 園路をもう少し進むと美術館の別館という建物があります。これは少し古びたコンクリートの建物。その前に開けたお庭、その庭に接して、石清水八幡の参道沿いにあった僧坊を移築した一画があります。この庭園の中核建物である、泉坊と草庵茶室の松花堂のある一画です。生け垣の切れ目から、中門を経て園路が続き、中門脇の待合い、泉坊の玄関などを眺めて、松花堂の前に、そして、泉坊書院の庭と広間を見学、というような見学コースとなっています。
この泉坊と草庵茶室の松花堂のある一画と開けた庭、古い美術館の建物が、一世代前の施設という雰囲気でした。少し広めに開けた庭は、旧美術館建物の前庭か駐車場であったのでしょうか。当然エントランスは西側を通る東高野街道でしょうね。
上に航空写真を載せました。右のグーグルマップから切り取ったカラー写真が、おそらく10年前から数年前くらいの間に撮影された物で、左は昭和25年に米軍が撮影したものです。国土地理院のサイトから切り取りました。
カラー写真の中央の緑地が「松花堂庭園」で、庭園への入り口や今の美術館、吉兆は右下のモダンな屋根の所です。左の写真はカラー写真より少し広い範囲を切り取りました。中央にある緑地風の場所が、おそらく、この泉坊と草庵茶室の松花堂のある一画です。まだ旧美術館の建物もありません。西側の道路から、良い感じのアプローチで泉坊の方に続いていますね。
東側も庭先からすぐに畑です。戦後すぐの写真で黒っぽく映る一画がおそらく、この場所での最初の姿に近いのかと思います。実は、ここは、東車塚古墳という古墳の盛り土のところで、周辺より一段高くなっています。なので、今の庭園入り口からの園路を通るとき西側に一段高く見えるようです。
こうして変遷していった、この松花堂庭園というのが、どのようにして今の姿になったのか、入園して感じた違和感の原因ですけれど、これはインターネットの検索だけでは経緯が良くわかりませんでした。
まぁいろいろ眺めて次のようなところです。
・松花堂草庵は1637年頃、松花堂昭乗が石清水八幡の参道沿いに創建した。
・前後して、泉坊などの書院も建築または移築されたらしい。
ただ、詳細に触れる記事はみあたらず。
・当初建築の場所は現在地1.8Km程北の男山の東面中腹。山の中腹です。
・江戸から明治へ遷年する年に発令した神仏分離令の影響で、
「松花堂は山麓の大谷氏の別荘に移築」
(京都文化観光資源保護財団 桐浴 邦夫さんの京都の茶室という記事)
・明治24年にさらに現在地に移築。
「井上氏によって現在地に移築され、泉坊庭園を復元」
(同上の記事)たぶん空撮左側の雰囲気でしょう。
・移築した現在地は、古墳の上。
・移築の際は庭も再現したらしい=建物配置も大体同じかもしれない。
・地図から読むと、東高野街道という古代道路に面している。
・書院の建物は東からやや北を正面にして配置されている。
・書院の庭は、古墳の上なので周辺より一段高い。
・移築後から、平成14年までの間のことはWebの範囲では不明。
・「戦後、塚本氏の所有するところになり、のちに史跡松花堂として
八幡市の管理」(同上の記事)
上の塚本氏とは塚本総業という会社のオーナー塚本素山氏のこと
で、昭和38年から昭和52年までの間、塚本総業株式会社の所有
塚本氏は今は千葉県佐倉にある「塚本美術館」という刀剣の美術館
を昭和40年に創設している(余談)
・平成14年に現在の庭園と新しい美術館などの施設を整備。
・現在の運営は八幡市の統括する財団法人
江戸期や明治24年の移築から平成14年は誰がどんな風に扱ってきたのでしょうね。歴史的な遺構や文化財のある美術館で、学芸員もいらっしゃるのであれば、年表ぐらいは整備して欲しいですね。茶道などの文化施設として、復元茶室も3棟ありますし、やはりはっきりしておいた方が、利用する際も良いと思うのではありました。(最近松花堂美術館のデータベースが良くなってます)ちなみに、まだ続けられているかどうか不明ですが、昨年時点ではこのブログで繰り返しお名前を上げている中村昌生さんが名誉館長でした。
などなどと、インターネットで暫く愉しく遊んでしまいました。で、感想を含めて次のような推測に至ったのでした。
石清水八幡の僧坊として存在していたときの、松花堂草庵と泉坊書院は、もしかすると、淀川と木津川の合流地付近の平野と京都市内から宇治に至る山々を借景とする風光明媚な書院と茶室で、奈良、大和郡山にある慈光院のような雰囲気の僧坊であったのではないかということです。時代的には奈良の慈光院の方がずっと後年の創建ですから、慈光院を創建した石州流茶道の祖・小泉藩主片桐石見守貞昌(石州)なども大いに参考にしているかも知れませんね。そういえば、松花堂昭乗と小堀遠州は遠戚ににありましたから、遠州などもからむ庭があったかもしれません。
そして、創建から概ね250年後、神仏分離令の影響で、現在地に移築。移築に当たっても、東側の開けた高台を近くに求め、古墳を利用するという、どちらかというと禁じ手と思う手だてさえ使っています。少しでも創建時の雰囲気を残そうとしたのでしょう。強い意志を感じますね。それを知りたくもあります。
おそらく、現在の位置に移された直後の泉坊書院の前の庭は、樹木も低く抑えていて遠望も有り、一段下は畑ですから、そのまま低い視線で、木津川の土手から先に京都市内を巡る山並みが見えていたのだと思います。
もし、もう一度、松花堂庭園に行くことがあったら、泉坊書院の縁側に腰掛けて、東に向かいそれを想像しましょう。東高野街道側(山側)の中門から入り、中待合いで一旦止まり、露地を歩いた先の書院の庭で風景が広がります。二畳の草庵茶室も味がでてくると思います。(現実は哀しく、今東側の畑は無くなり、建て売り住宅の壁と屋根しか見えません。だから、竹の植林は止む無しでしょうか)
もう一つ、今回訪問では、八幡市駅から乗ったタクシーが、車の走りやすいバイパス風の道路を経由して行きましたが、次に行くときは、運転手さんに、東高野街道を経由して行くように依頼しましょう。今は入り口として機能していませんが、移築された際、正面の門だった、豪華な門が残っています。門だけでなく、東高野街道も歴史のある古道です。それにしても、明治期に東高野街道に沿った土地を利用出来ることなどからすると、かなり力のある方が移築されたのでしょうねぇ。
長くなってしまいました(笑)
園内を歩いていると、梅隠という茶室の玄関が開いていました。中に妙齢の女性2人。持参した道具類を広げて、茶会の準備中でした。なんでも、友人8人ほどで女子会風茶事を翌日に催すので準備中とのこと。ちょっと、上がって良いかとたずねて、梅隠に上がらせていただき、茶道口から4畳半の茶室へ入らせてもらいました。良いですねぇ。翌日の予定がなければ、お茶会を覗いてみたかったです。まだ暑いから、時期をはずすけれど絽をの着物を着るといった、関西風の話し方をする女性の雰囲気が明るくて好ましく感じたのではありました。たばこ入れの話しも面白かったですよ。まぁ、これを見ることはないと思いますけれど、もし、見てたらメールください(笑)
公的な機関での運営は、管理に今一つ課題はありますけれど、気軽に愉しむという機会をもてることは素直に評価して良いのではないかと、準備中の女性お二人を見て思わずには居られません。
それにしても、女性方も、お昼は、吉兆で食べると言ってましたので、ずいぶん雅で羨ましい女子会なのではありました。こういう話しを聞けたので、そこそこ愉しく松花堂庭園の散策を終えたのではありました。
たぶん、木津川の流橋のお話しに続きます。
※色文字消し線部分は2015年5月の加筆修正です
秋葉@ゑこう
ちなみに、松花堂弁当は、当時(昭和初期)の新聞記事になるほどの大きな茶事で初めて供されたようですけれど、これって、商売熱心な大阪の高級仕出し屋のおっちゃんが、数をこなすため略式配膳であることをあまり意識させず、しかも格好良く給仕できる、そんなことをねらって、もっともな由来を考えた、っていうような見方も出来るかもしれません。それが、とても格好良かったんで、後から流行ったのかもね。ま、これは吉兆の湯飲み(「雪富正月屋」と文字入れのある)の向こうに見えた景色。。。でも、そこまで主旨を修正すると全部打ち込み直さないとダメですけれど(笑)
ともかく、そんな風に過去記事を見直しながら、松花堂庭園の話しなども打ち込もうなどと考えておりました。でも、庭園訪問時の印象が、どうもスッキリしなくて、なんでだろうねぇ、という「なんで」の穴埋めに、よなよなネットサーフィン。ついつい遊んでしまいまた。1回のお出かけでこれだけ遊べると2度美味しいかも知れませんね。
と、相変わらず枕が長いのですけれど。。。。
暫く歩くと、近年復元した茶室が3棟、内2棟は最近このブログによく名前がのる中村昌生先生の手による復元です。席名は、園路の順に、梅隠、松隠、竹隠です(笑)ありゃ、松竹梅ですね。まるで鰻屋のお品書きのようです。それぞれ、古色というのでなく、あまり手を掛けられていない態の、少しくたびれた風情なのでした。八幡市の出資する財団法人の運営ですから、やはり厳しいのでしょうね。そういう風情に溢れていました。でも、後で触れますが、悪いことだけではないようです。
上に航空写真を載せました。右のグーグルマップから切り取ったカラー写真が、おそらく10年前から数年前くらいの間に撮影された物で、左は昭和25年に米軍が撮影したものです。国土地理院のサイトから切り取りました。
カラー写真の中央の緑地が「松花堂庭園」で、庭園への入り口や今の美術館、吉兆は右下のモダンな屋根の所です。左の写真はカラー写真より少し広い範囲を切り取りました。中央にある緑地風の場所が、おそらく、この泉坊と草庵茶室の松花堂のある一画です。まだ旧美術館の建物もありません。西側の道路から、良い感じのアプローチで泉坊の方に続いていますね。
東側も庭先からすぐに畑です。戦後すぐの写真で黒っぽく映る一画がおそらく、この場所での最初の姿に近いのかと思います。実は、ここは、東車塚古墳という古墳の盛り土のところで、周辺より一段高くなっています。なので、今の庭園入り口からの園路を通るとき西側に一段高く見えるようです。
こうして変遷していった、この松花堂庭園というのが、どのようにして今の姿になったのか、入園して感じた違和感の原因ですけれど、これはインターネットの検索だけでは経緯が良くわかりませんでした。
まぁいろいろ眺めて次のようなところです。
・松花堂草庵は1637年頃、松花堂昭乗が石清水八幡の参道沿いに創建した。
・前後して、泉坊などの書院も建築または移築されたらしい。
ただ、詳細に触れる記事はみあたらず。
・当初建築の場所は現在地1.8Km程北の男山の東面中腹。山の中腹です。
・江戸から明治へ遷年する年に発令した神仏分離令の影響で、
「松花堂は山麓の大谷氏の別荘に移築」
(京都文化観光資源保護財団 桐浴 邦夫さんの京都の茶室という記事)
・明治24年にさらに現在地に移築。
「井上氏によって現在地に移築され、泉坊庭園を復元」
(同上の記事)たぶん空撮左側の雰囲気でしょう。
・移築した現在地は、古墳の上。
・移築の際は庭も再現したらしい=建物配置も大体同じかもしれない。
・地図から読むと、東高野街道という古代道路に面している。
・書院の建物は東からやや北を正面にして配置されている。
・書院の庭は、古墳の上なので周辺より一段高い。
・
・「戦後、塚本氏の所有するところになり、のちに史跡松花堂として
八幡市の管理」(同上の記事)
上の塚本氏とは塚本総業という会社のオーナー塚本素山氏のこと
で、昭和38年から昭和52年までの間、塚本総業株式会社の所有
塚本氏は今は千葉県佐倉にある「塚本美術館」という刀剣の美術館
を昭和40年に創設している(余談)
・平成14年に現在の庭園と新しい美術館などの施設を整備。
・現在の運営は八幡市の統括する財団法人
江戸期や明
石清水八幡の僧坊として存在していたときの、松花堂草庵と泉坊書院は、もしかすると、淀川と木津川の合流地付近の平野と京都市内から宇治に至る山々を借景とする風光明媚な書院と茶室で、奈良、大和郡山にある慈光院のような雰囲気の僧坊であったのではないかということです。時代的には奈良の慈光院の方がずっと後年の創建ですから、慈光院を創建した石州流茶道の祖・小泉藩主片桐石見守貞昌(石州)なども大いに参考にしているかも知れませんね。そういえば、松花堂昭乗と小堀遠州は遠戚ににありましたから、遠州などもからむ庭があったかもしれません。
そして、創建から概ね250年後、神仏分離令の影響で、現在地に移築。移築に当たっても、東側の開けた高台を近くに求め、古墳を利用するという、どちらかというと禁じ手と思う手だてさえ使っています。少しでも創建時の雰囲気を残そうとしたのでしょう。強い意志を感じますね。それを知りたくもあります。
おそらく、現在の位置に移された直後の泉坊書院の前の庭は、樹木も低く抑えていて遠望も有り、一段下は畑ですから、そのまま低い視線で、木津川の土手から先に京都市内を巡る山並みが見えていたのだと思います。
もし、もう一度、松花堂庭園に行くことがあったら、泉坊書院の縁側に腰掛けて、東に向かいそれを想像しましょう。東高野街道側(山側)の中門から入り、中待合いで一旦止まり、露地を歩いた先の書院の庭で風景が広がります。二畳の草庵茶室も味がでてくると思います。(現実は哀しく、今東側の畑は無くなり、建て売り住宅の壁と屋根しか見えません。だから、竹の植林は止む無しでしょうか)
もう一つ、今回訪問では、八幡市駅から乗ったタクシーが、車の走りやすいバイパス風の道路を経由して行きましたが、次に行くときは、運転手さんに、東高野街道を経由して行くように依頼しましょう。今は入り口として機能していませんが、移築された際、正面の門だった、豪華な門が残っています。門だけでなく、東高野街道も歴史のある古道です。それにしても、明治期に東高野街道に沿った土地を利用出来ることなどからすると、かなり力のある方が移築されたのでしょうねぇ。
長くなってしまいました(笑)
公的な機関での運営は、管理に今一つ課題はありますけれど、気軽に愉しむという機会をもてることは素直に評価して良いのではないかと、準備中の女性お二人を見て思わずには居られません。
それにしても、女性方も、お昼は、吉兆で食べると言ってましたので、ずいぶん雅で羨ましい女子会なのではありました。こういう話しを聞けたので、そこそこ愉しく松花堂庭園の散策を終えたのではありました。
たぶん、木津川の流橋のお話しに続きます。
※色文字消し線部分は2015年5月の加筆修正です
秋葉@ゑこう
by akiba-echo
| 2012-09-05 22:26
| 旅の話し
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