2012年 09月 11日
少し後味の悪かった重森三玲庭園美術館 |
先日の京都散歩から、一週間と数日。でも、なんだかひどく過去の出来事のようになってきています。
木津川の流橋を眺めた後、松花堂庭園から乗ったタクシーでそのまま、近鉄の大久保駅へ。近鉄、阪急と乗り換えて、河原町三条駅から、またタクシーで寺町御池まで移動。寺町の画廊で人吉故U画伯の仲間のグループ展へ合流したのではありました。
その翌日の日曜日、当方としては珍しく事前予約済みで、午前11時から重森三玲庭園美術館を見学であります。これ以外は、ここにという場所もいつものように決めていませんでしたので、朝もダラダラとのんびりしたものです。それでもさすがに10時過ぎまで宿には居づらいので、9時過ぎには宿を後にしたのではありました。
暑いし、四条烏丸の宿前から即タクシーで京都大学正門前まで移動。あっという間に到着です。でも、重森三玲庭園美術館は、11時まできっちり閉門の様子。しょうがないので、近隣散歩。まぁ、この方が性にあっているのかもしれません。1時間余、近傍をブラブラしましたが、実はこちらの方が余程愉しかったのでした(苦笑)
詳しくはご自身でWikiなどをご覧頂くとよろしいと思いますが、この美術館、美術館と言っても、昭和の庭と茶室と、江戸時代の書院を公開している美術館で、庭と茶室は重森三玲の手によるもの、書院風の住宅は、その昔は、近くにある吉田神社の宮司居宅で、昭和期に重森三玲が譲り受けたたという経緯があります。昭和18年に三玲が譲り受けたときにはかなり荒廃していたらしいですね。余談ですが、ここは、過去にシャープの液晶TVのCMでもロケ地にもなっています。
この「庭園美術館」は個人所有で、重森三玲のご親族が運営しています。宗教団体や、観光事業を行っている法人、公共の団体ではなく、親族が重森三玲という昭和を代表する庭園研究家にして作庭家の、旧邸宅を一般公開しているのでした。
日本庭園といえば、「作庭記」の「生得の山水をおもはえて」なんていうのが思い出されますが、三玲の作庭は作為のある曲線や幾何学的な直線が、伝統的な庭園作法をゆがめずに融合してモダンな気配を感じるような気がします。微妙なバランスに違和感が無く押しつけがましくありません。
ちなみに、この茶室は、ここに重森三玲が移り住んでから増築したものらしく、三玲自身のデザインによるもののようです。10畳ほどの広間で、居室としても機能するような広さと造りになっているような感じです。室内の建具や、床の意匠などにもずいぶん気配りした、実用的な茶室ではありました。
重森三玲庭園美術館は、完全予約制で1回10人ほどを午前と午後に分けて説明付で見学する形になっています。説明は、重森三玲のご子息とお孫さんお二人で行い、庭園や建物の管理もこのお二人で行っているようでした。庭は大変良く管理されていて大事にされていることが、見るものにつたわります。ただ、建物は、だいぶ傷んでいる様子。道路から木戸の付いた門をくぐると、正面に一つ母屋のような建物があり、庭園美術館は、その右手の中門を抜けた所にあります。母屋の方は幾分綺麗に手が入っています。こちらも、重森三玲の居宅であったようですが、今は別な方の持ち物のようでした。一瞬、パトロンのような方が資金を出されて居るのかと邪推しましたが、今はかなり関係に距離のあるニュアンスを感じます。庭園美術館側の建物と棟続きですし、渡り廊下もありますが、渡り廊下から「庭園美術館」側の建物の傷みはかなりひどく感じました。何故でしょう腑に落ちませんね。
また、庭園美術館の面した通りは、吉田神社の裏参道で、神職の住宅エリアであるようです。吉田神社は大変古い歴史のある神社で境内も大変広いのです。関わる神職も多いのでしょう。そのためか庭園美術館敷地と書院建物の元の持ち主であった方と同じお名前の居宅が裏参道沿いに目に付きます。庭園美術館の書院の説明の際に「重森家が吉田神社にからむ歴史ある建物を所有して良いものかという自問もある」的な言葉がありましたが、もしかすると、そう言う言葉を出したくなる地域的な軋轢が今も残るのかと思わずにいられません。重森三玲は岡山の片田舎の出身、お笑いネタですが「前の戦争が、応仁の乱」と言っても何故か違和感のない京都では、昭和期からの住人はまだ新参余所者扱いされているような気配すら感じます。
それに、見学の入場料は一人千円ほど、各回10名×午前午後2回、団体が他にあるとしても、大した収入ではありません。とても見学者の落とす費用だけでは、建物の維持までは手が回らぬものと思われます。宗教団体や、他の観光施設と複合的な利益を誘導できるような法人であれば、それでもナントカやれるかも知れませんが、所詮個人の及ぶ力は微々たるものです。スポンサーだと思って力を借りても、意見が違えば距離も出ます。融合的な活動も出来ません。
気に入らない見学者にも説明しなければなりませんし、見学だけでペイしていない状況ではガイド役の表情も曇ります。
どうも、こうした厳しい気配を諸処感じずにはいられない小一時間ではありました。重森三玲の庭園は、時代は新しいけれど、すでに文化財。凄く物わかりの良いスポンサーが現れて、基金を積んだ上で公益財団か何かの保有管理とし、重森家の皆さんに管理を委託するなどの運営方法が良いというのが、見学を終えた素直な感想なのではありました。
小規模ですが、捨てがたい味のある良い庭と味のある建物が残るだけに、今の状態はせつなくもありますね。
→ふすま絵の余談(葛飾北斎の浮世絵「甲州石班(かじか)沢」から庭意匠へ)
→後日、太宰府にある光明禅寺庭園に出かけました
→この記事では参考にしていない参考文献のリスト
秋葉@ゑこう
by akiba-echo
| 2012-09-11 07:56
| 旅の話し
|
Comments(10)
Commented
by
akiba-echo at 2014-01-29 14:31
2014年1月中旬に「重森三玲庭園美術館」のホームページが消えてしまいました。googleなどで検索すると、この頁がかなり上位に表示されてしまい、閲覧数が増えて驚いています。事情は良くわかりませんが、見学の連絡先なども消えてしまいましたので、見学を希望されている方はお困りでしょうね。美術館のHPを最後に覗いたときに、この記事のこと(だと思う)に触れて、修繕計画もお持ちであるようなことも記載されておりましたので、そんな状況なのでしょうか。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示ください。
どのような事情にしても美術館HPの復活を願っております。
どのような事情にしても美術館HPの復活を願っております。
0
Commented
by
akiba-echo at 2014-02-02 22:51
部分的に復活されたようです。
Commented
at 2014-05-12 18:12
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
akiba-echo at 2014-05-14 21:50
鍵コメさま
ご指摘ありがとうございます。そんなに細かく読んでいただけるとは思いませんでした。ありがとうございます。自分のまとめに自信が無い時や、ご指摘の通り「まぁそうなんだけど、そうでもないこともあるけどね」を省いて、口癖のように使っておりますね(苦笑)
ご指摘ありがとうございます。そんなに細かく読んでいただけるとは思いませんでした。ありがとうございます。自分のまとめに自信が無い時や、ご指摘の通り「まぁそうなんだけど、そうでもないこともあるけどね」を省いて、口癖のように使っておりますね(苦笑)
Commented
by
MOKUMOKU
at 2017-09-05 08:41
x
ニューヨーク在住の血液学者です。2005年に大学を退官しました。
昨日メトロポリタン美術館でHyden Herrera”Listening to Sone: The Art and Life of Isamu Noguchi” という本を買い求め、を読んでいるとイサム野口は1957年重森美玲氏に会い、パリのユネスコ日本庭園を作成する際重森氏の協力を得たと書いてあります。私は昭和11年京都生まれで、吉田神社の裏道を通って第二錦林小学校に通いましたので、今の重森三玲庭園美術館前を歩いたと思います。庭はくわしく存じませんが、吉田神社に向かって左側の武家屋敷風の建物ではなかったかと記憶しております。懐かしくなって検索していてここにたどり着きました。
昨日メトロポリタン美術館でHyden Herrera”Listening to Sone: The Art and Life of Isamu Noguchi” という本を買い求め、を読んでいるとイサム野口は1957年重森美玲氏に会い、パリのユネスコ日本庭園を作成する際重森氏の協力を得たと書いてあります。私は昭和11年京都生まれで、吉田神社の裏道を通って第二錦林小学校に通いましたので、今の重森三玲庭園美術館前を歩いたと思います。庭はくわしく存じませんが、吉田神社に向かって左側の武家屋敷風の建物ではなかったかと記憶しております。懐かしくなって検索していてここにたどり着きました。
Commented
by
akiba-echo at 2017-09-08 00:30
MOKUMOKU さん はじめまして。
コメントありがとうございます。
周辺の町屋と異なる雰囲気の前庭の有る小さな寝殿造風の建物ですから、たぶんご記憶のある建物だと思います。でも、おそらく貴兄の通われていた頃から比べると京都の街並みと街の雰囲気は恐ろしいほど変化していると思います。
自分はよそ者で時々しか訪問しなためかもしれませんが、このところの変化についてゆけず観光するだけで気力の要る街になってしまいました。先月末にも東京から所用で京都を訪問しましたが、気力が伴わず用事だけ済ませてすぐに戻っております。
いただいたコメントの中のイサム野口さんのお名前で、学生時代に半年ほど電話番(と茶飲み話相手要員))のアルバイトをしていた事務所の所長で浅田孝という先生のことを少しばかり思い返しておりました。浅田先生とイサム野口さんは昵懇であったようで香川県庵治村のアトリエの裏話やその他いろいろ伺った記憶があります。他の方の書き物の中にあると「ああ伺ったなぁ」などとかすかに思い出す程度の茶飲み話として聞き流してしまったことを今更ながら残念に思っております。
コメントありがとうございます。
周辺の町屋と異なる雰囲気の前庭の有る小さな寝殿造風の建物ですから、たぶんご記憶のある建物だと思います。でも、おそらく貴兄の通われていた頃から比べると京都の街並みと街の雰囲気は恐ろしいほど変化していると思います。
自分はよそ者で時々しか訪問しなためかもしれませんが、このところの変化についてゆけず観光するだけで気力の要る街になってしまいました。先月末にも東京から所用で京都を訪問しましたが、気力が伴わず用事だけ済ませてすぐに戻っております。
いただいたコメントの中のイサム野口さんのお名前で、学生時代に半年ほど電話番(と茶飲み話相手要員))のアルバイトをしていた事務所の所長で浅田孝という先生のことを少しばかり思い返しておりました。浅田先生とイサム野口さんは昵懇であったようで香川県庵治村のアトリエの裏話やその他いろいろ伺った記憶があります。他の方の書き物の中にあると「ああ伺ったなぁ」などとかすかに思い出す程度の茶飲み話として聞き流してしまったことを今更ながら残念に思っております。
Commented
by
MOKUMOKU
at 2017-09-08 07:09
x
返信ありがとうございます。
私の両親は関東大震災の後まで東京根津に住んでおりましたが、昭和初期に京都に移り住みました。
私たちは吉田山の東側、大文字の見える神楽岡に住んでおりましたので、毎日吉田山を越えて小学校に通いました。重森美玲氏にはお子様が5人おられ、長男は完途(カント)、次男は弘淹(コーエン)、三男が埶氐(ゲーテ)、四男は貝崙(バイロン)、長女は由郷(ユーゴ)だったそうですが、私は三男の埶氐君と同級生で、私の弟は四男の貝崙君と同級生でした。子供の頃はゲーテもバイロンも知らず、弟に「重森の名前はゲーテっていうんだぞ」と言ったら、弟が「弟はもっとすごいぞ、バイロンというんだぞ」と言うので、「うえー、ほんまかいな」と言い合ったものです。重森兄弟とはそんなに親しくはありませんでしたが、何度か学校の帰りに重森君の家まで一緒に歩き、入り口のところで立ち話をしたりして別れた記憶があります。家の前は当時舗装されておらず、小石がごろごろしていました。
調べてみたら埶氐君は2010年に亡くなったそうです。6年生のとき、埶氐君が書いた雨の夜にすき焼き用のお肉を買いに行く作文を担任の広瀬先生が教室で読んでくださったのを思い出します。
ついでに書きますと、私は渡米して今年でちょうど50年になりますが、イサム野口氏の異母弟でヴォーグのカメラマンだった野口ミチオさんとこちらでかなり親しくしておりました。
私の両親は関東大震災の後まで東京根津に住んでおりましたが、昭和初期に京都に移り住みました。
私たちは吉田山の東側、大文字の見える神楽岡に住んでおりましたので、毎日吉田山を越えて小学校に通いました。重森美玲氏にはお子様が5人おられ、長男は完途(カント)、次男は弘淹(コーエン)、三男が埶氐(ゲーテ)、四男は貝崙(バイロン)、長女は由郷(ユーゴ)だったそうですが、私は三男の埶氐君と同級生で、私の弟は四男の貝崙君と同級生でした。子供の頃はゲーテもバイロンも知らず、弟に「重森の名前はゲーテっていうんだぞ」と言ったら、弟が「弟はもっとすごいぞ、バイロンというんだぞ」と言うので、「うえー、ほんまかいな」と言い合ったものです。重森兄弟とはそんなに親しくはありませんでしたが、何度か学校の帰りに重森君の家まで一緒に歩き、入り口のところで立ち話をしたりして別れた記憶があります。家の前は当時舗装されておらず、小石がごろごろしていました。
調べてみたら埶氐君は2010年に亡くなったそうです。6年生のとき、埶氐君が書いた雨の夜にすき焼き用のお肉を買いに行く作文を担任の広瀬先生が教室で読んでくださったのを思い出します。
ついでに書きますと、私は渡米して今年でちょうど50年になりますが、イサム野口氏の異母弟でヴォーグのカメラマンだった野口ミチオさんとこちらでかなり親しくしておりました。
Commented
by
akiba-echo at 2017-09-09 01:33
MOKUMOKUさん こんばんは。
小学校から重森家の近くを経由して吉田山を抜けるコースは、70年あまり前の吉田山を考慮したら、小学生にはちょっとした冒険コースですね。子供しか抜けられない抜け道などもありそうでちょっと考えただけでもワクワクします。
ついでのお話のイサム野口さん異母兄弟のお話、自分と貴兄の間に仲介人数3ですから、社会心理学者のミルグラムさん以来いろいろ実験されている6次の隔たりから見ればMOKUMOKUさんは比較的身近な方ですね(笑)世界は狭いです。昨夕も神楽坂の小料理屋で知人とそんな話をしておりました。
小学校から重森家の近くを経由して吉田山を抜けるコースは、70年あまり前の吉田山を考慮したら、小学生にはちょっとした冒険コースですね。子供しか抜けられない抜け道などもありそうでちょっと考えただけでもワクワクします。
ついでのお話のイサム野口さん異母兄弟のお話、自分と貴兄の間に仲介人数3ですから、社会心理学者のミルグラムさん以来いろいろ実験されている6次の隔たりから見ればMOKUMOKUさんは比較的身近な方ですね(笑)世界は狭いです。昨夕も神楽坂の小料理屋で知人とそんな話をしておりました。
Commented
by
MOKUMOKU
at 2017-09-09 04:37
x
おっしゃるとおり、日が暮れると怖くて吉田山を越えるのは大変でした。山のてっぺんに竹中稲荷があり、赤い鳥居が並んでいる先にキツネの洞穴みたいなのがたくさんありました。神楽坂の小料理屋さんとありますが、吉田山を越えないでまっすぐ南下して神楽坂を下って登校することもありました。少し遠回りでした。
建築家の方でしょうか。浅田孝という方を検索してみました。都市計画家・建築家とありました。私の父は昔の内務省都市計画課の文官でした。京都府庁に天下りしたので、一家は京都に住むようになったのです。
イサム氏の弟のミチオ氏は10年くらい前世田谷の自宅で死去されました。私より4歳くらい年長だったと思います。イサム氏の最後の弟子が私の友人だったので、知り合いました。アメリカの田舎をドライブするのが好きで、とくに田舎で店主が1人で焼いているハンバーガーを食べるのが好きで、私の車でよくドライブしました。カメラのことも教えてもらいました。私が昭和42年プリンストン大学に留学し、アメリカで最初に住んだ下宿に一緒に行き家の前で2人で写真を撮りました。ミチオさんは日本で慶応大学を出てから渡米し、イエール大学で勉強されたのですが、次回はミチオさんが住んだイエールの学生寮に2人で行こうと約束していたのです。ミチオさんは10年前に奥さんを亡くされ、世田谷の自宅で1人暮らしをしておられたのですが、お風呂で心臓発作を起こして亡くなられ、イエール行きは果たせませんでした。
建築家の方でしょうか。浅田孝という方を検索してみました。都市計画家・建築家とありました。私の父は昔の内務省都市計画課の文官でした。京都府庁に天下りしたので、一家は京都に住むようになったのです。
イサム氏の弟のミチオ氏は10年くらい前世田谷の自宅で死去されました。私より4歳くらい年長だったと思います。イサム氏の最後の弟子が私の友人だったので、知り合いました。アメリカの田舎をドライブするのが好きで、とくに田舎で店主が1人で焼いているハンバーガーを食べるのが好きで、私の車でよくドライブしました。カメラのことも教えてもらいました。私が昭和42年プリンストン大学に留学し、アメリカで最初に住んだ下宿に一緒に行き家の前で2人で写真を撮りました。ミチオさんは日本で慶応大学を出てから渡米し、イエール大学で勉強されたのですが、次回はミチオさんが住んだイエールの学生寮に2人で行こうと約束していたのです。ミチオさんは10年前に奥さんを亡くされ、世田谷の自宅で1人暮らしをしておられたのですが、お風呂で心臓発作を起こして亡くなられ、イエール行きは果たせませんでした。
Commented
by
akiba-echo at 2017-09-10 00:59
MOKUMOKUさん こんばんは。
度々コメントありがとうございます。
吉田山の近くにも神楽坂あるのですね。もっとも当時のお住まいが「神楽岡」ですからあって不思議ではないですね。ちなみに自分がときおり上り下りしている「神楽坂」は東京都新宿区の神楽坂です。
当方このブログで自分に直接縁故のある方は、ご当人のプライバシーのことなど考慮してほぼ匿名なのですが、なぜか浅田孝さんだけは実名で載せています。既に鬼籍に入られて相当の年数も経ちますし、都市計画や建築、デザインの分野で歴史に名を残されている方だと思いますのでそのようにしています。40年以上前のそれも半年だけの、一人事務所の所長と電話番のアルバイトと言う関係程度の面識で、たぶんほんの一面しか知らないのだと思うのですけれど、雑談しているときの笑い顔の思い出をついつい話したくなってしまいます。記憶の中の浅田孝さんは、「媚びず、諂わず、見下さず、良く聞き、博識で受け止めて、いつの間にか彼のペース」でした。少しだけ真似させてもらってます。
このアルバイトから1年後くらいに自分は建築系の出版社に誘われてそこの契約社員になり、当時個人的に調べていた分野をテーマにした季刊誌の企画と編集を2年ほどしていました。彼にも原稿を依頼しようと思いながら媒体にマッチしたテーマが見つからず、しばらくして季刊誌も無くなってしまい原稿依頼は実現せずそれは今も心残りです。当時、自分が興味のあった方に片端から取材やら原稿依頼をさせていただいたのになぜか遠慮していたのか、あるいは企画・編集をしていた媒体の出来がいまひとつ自分の中で未消化で「出来ました」なんて見せに行くのも気が引けていたのかもしれません。
重森三玲さんから随分話題が飛んでしまいましたが、この一連のコメントのスタートになった重森三玲邸の電球の傘はイサムノグチさんのデザインだったと思うし、イサムノグチさんと浅田孝さんは一緒に仕事をされたりしていますので、良しとしてください。
度々コメントありがとうございます。
吉田山の近くにも神楽坂あるのですね。もっとも当時のお住まいが「神楽岡」ですからあって不思議ではないですね。ちなみに自分がときおり上り下りしている「神楽坂」は東京都新宿区の神楽坂です。
当方このブログで自分に直接縁故のある方は、ご当人のプライバシーのことなど考慮してほぼ匿名なのですが、なぜか浅田孝さんだけは実名で載せています。既に鬼籍に入られて相当の年数も経ちますし、都市計画や建築、デザインの分野で歴史に名を残されている方だと思いますのでそのようにしています。40年以上前のそれも半年だけの、一人事務所の所長と電話番のアルバイトと言う関係程度の面識で、たぶんほんの一面しか知らないのだと思うのですけれど、雑談しているときの笑い顔の思い出をついつい話したくなってしまいます。記憶の中の浅田孝さんは、「媚びず、諂わず、見下さず、良く聞き、博識で受け止めて、いつの間にか彼のペース」でした。少しだけ真似させてもらってます。
このアルバイトから1年後くらいに自分は建築系の出版社に誘われてそこの契約社員になり、当時個人的に調べていた分野をテーマにした季刊誌の企画と編集を2年ほどしていました。彼にも原稿を依頼しようと思いながら媒体にマッチしたテーマが見つからず、しばらくして季刊誌も無くなってしまい原稿依頼は実現せずそれは今も心残りです。当時、自分が興味のあった方に片端から取材やら原稿依頼をさせていただいたのになぜか遠慮していたのか、あるいは企画・編集をしていた媒体の出来がいまひとつ自分の中で未消化で「出来ました」なんて見せに行くのも気が引けていたのかもしれません。
重森三玲さんから随分話題が飛んでしまいましたが、この一連のコメントのスタートになった重森三玲邸の電球の傘はイサムノグチさんのデザインだったと思うし、イサムノグチさんと浅田孝さんは一緒に仕事をされたりしていますので、良しとしてください。