2013年 12月 31日
秋分の日の熊本・美里町の馬門橋 |
秋分の日の熊本・五木村から大通峠を越えて旧東陽村あたり
秋分の日の熊本・八代市泉でお昼 の続きです。 美里町の馬門橋(まかどばし)は、以前同じ町内の霊台橋や大窪橋を眺めた前後に通り抜けた国道218号沿いにある小さな案内板を見て気になっていた石橋です。この界隈を通り抜けるのは多分3~4回目だと思うのですが、その都度案内板が気になっていて、一度は探してみたのですがすぐに見つけられず、それ以来気になっていた石橋なのでした。ちなみにこの橋も一つ前の記事に載せた笠松橋の架橋をした橋本勘五郎が関わっていて、馬門橋は文政11年(1828年)に岡山の石工茂吉と組んで架けた石橋という説明を複数のサイトで目にします。勘五郎初期の石橋になるのですが、Wikiだと勘五郎は文政11年(1828年)の生まれ??6歳ですね。「初期」過ぎるような(笑=もうちょっと調べた方が良さそうです)ちなみに、勘五郎関係では霊台橋(これは手伝い)が弘化4年(1847年)、通潤橋は嘉永7年(1854年)、笠松橋が明治2年(1869年)。明治4年(1871年)からは明治政府に誘われて東京に引っ越して萬世橋など複数の都内の橋を架けています。
まぁそれよりも出かけた理由はやっぱり走っていて見つけた案内板が気になっていたという方が大きいのです(笑)前回探したときは、すぐ橋が見つかると思って場所について特に下調べなしでした。案内板のそばにあるのだから見つかるよね程度のことで探して見つけられず(笑×2)
その後知りましたが、国道の道路橋の下。それがこの石橋の一番残念な所です。当然そんな石橋ですから馬門橋というバス停の近くにある踏み跡を国道の橋の下に入るように降りると、馬門橋はあるのでした。上に鉄の橋がなければねぇ、なかなか良い雰囲気の石橋です。昔の街道を支えていた橋であることは良くわかりますが、国道を走る車の走行音がこの橋の余生の響きなのではありました。止む終えませんが哀しさが溢れます。御陰で、体調不良も加速。撮影も失敗(泣)
ということで、朝出たときは近所にある二俣五橋もついでにと思っていたのを止めて、少し早かったのですが熊本空港へ戻ることに致しました。
続き→秋分の日の熊本・阿蘇外輪山中腹のカフェ「風香」
秋葉@ゑこう
秋分の日の熊本・八代市泉でお昼 の続きです。
まぁそれよりも出かけた理由はやっぱり走っていて見つけた案内板が気になっていたという方が大きいのです(笑)前回探したときは、すぐ橋が見つかると思って場所について特に下調べなしでした。案内板のそばにあるのだから見つかるよね程度のことで探して見つけられず(笑×2)
その後知りましたが、国道の道路橋の下。それがこの石橋の一番残念な所です。当然そんな石橋ですから馬門橋というバス停の近くにある踏み跡を国道の橋の下に入るように降りると、馬門橋はあるのでした。上に鉄の橋がなければねぇ、なかなか良い雰囲気の石橋です。昔の街道を支えていた橋であることは良くわかりますが、国道を走る車の走行音がこの橋の余生の響きなのではありました。止む終えませんが哀しさが溢れます。御陰で、体調不良も加速。撮影も失敗(泣)
ということで、朝出たときは近所にある二俣五橋もついでにと思っていたのを止めて、少し早かったのですが熊本空港へ戻ることに致しました。
続き→秋分の日の熊本・阿蘇外輪山中腹のカフェ「風香」
秋葉@ゑこう
by akiba-echo
| 2013-12-31 00:43
| 旅の話し
|
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